人びとに「居場所」を提供する仕事が自分のいきがい/ハノイアン・キッチン 若田尚里

ビジネスパートナーのハン(左)・若田(右)

 ハノイの日本人街「リンラン通り」から少し路地を入り、奥まったところにベトナム料理店「ニャーベップ・ハノイアン」はある。「ニャーベップ」とはベトナム語で「台所」「キッチン」の意味だ。
 日本人経営なのに、日本料理でも外国の料理でもなく、ベトナム料理を提供するレストランを開いているという。おもしろいではないか。
 店内にはいると正面にカウンターバーがあり、夜はお酒もいただける。1階のフロアにはテーブルがいくつか設えてあり、食事ができるようになっている。ちょうどランチタイムだったので、私はベトナム風豚の角煮定食を所望した。価格はなんと 9万ベトナムドン。日本円にしたら、この円安でも720円ぽっきり。お財布にも優しい。
 定食なので、豚の角煮以外に空芯菜などの野菜の炒め物にスープ、漬物やピーナッツなどの箸休めにご飯もついてくる。豪勢だ。
 料理はいずれもベトナム北部の家庭で出てくるような家庭料理。味も薄味で、お好みに応じて、ヌクマムや醤油をつけて食べる。ベトナム式だ。
 ランチ以外にもディナーも午前0時まで営業しているので、夜遅いフライトでハノイに到着しても、ここにくれば小腹を満たすことができる。はやじまいするレストランがハノイには多いので、食いしん坊には嬉しいこと限りない。
 2階には35名ほど入ることのできる大部屋、3階には5、6名から10名ほどが入ることのできる個室も用意されている。内装もベトナムのクラシックな装飾が施されているので、はじめてベトナムを訪れたお客様などの接待にも最適だろう。

 今回インタビューに応じてくれたのは、このベトナム料理店「ハノイアン」を経営する若田尚里だ。2015年にはじめて仕事でベトナムに来て、その後独立起業してレストラン経営をはじめた彼女のバイタリティには感服する。
 インタビューでは彼女の生い立ちからベトナムとの出会い、そして起業するにいたるまでの彼女がたどってきた道について語ってもらった。なお、このインタビューのお約束通り、インタビューそのものはZOOMを利用したオンラインで行ったことをお断りしておく。

 「自然がいっぱいあって、大学生の頃から川遊びや川縁でキャンプしたりして過ごしました。徳島が大好きなんですよ」そう語る若田は徳島生まれ、大学卒業まで徳島に暮らしたという。
 でも若さゆえか、彼女は大都会で働きたいと東京に出てきて就職。就職した先はリクルートの「ホットペッパー」。ネットやスマホアプリがまだ普及していなかった2000年に創刊したフリーペーパーで、飲食店や美容室などの情報、割引クーポンを売りにしていた情報誌だった。若田は営業の仕事で美容室の顧客先をまわる仕事をしていた。
 「大学で社会学を専攻して、ちょっとだけですけど、具体的にある街のまちづくりにも携わったこともあるので、飲食店やカフェなど、人々の『居場所』となる仕事に興味があったんです」と若田。
 3年間契約社員として勤めた彼女は契約を更新するか、あるいは契約を終了して、別の仕事につくことも考えた。
 でも「大学時代にバックパッカーとして世界一周をした友人たちに感化されて」若田は社員として働いたときに貯金したお金で、世界をめぐる旅に出てしまうのだ。
 北米を皮切りに、南米、ヨーロッパ、そしてアジアを7ヶ月間で旅をした。アジアはインド、バングラデシュ、タイ、マレーシアを巡ったが、そのときに訪問先としてベトナムは含まれていなかった。
 「ひとり旅ですから、なにがおきるかわからない。怖いという気持ちが先立って、緊張の連続した旅でしたね」
 旅では語るべき武勇伝もなく、無事に過ごしたというから運がよいのかもしれない。あるいは多少の事件、事故に遭遇してもなんとも思わないだけの図太さを若田は旅を通じて身につけてしまったのかもしれない。そうでなければ、世界一周のひとり旅を続ける勇気など生まれてこないだろうし、海外で起業しようなどという無謀なことはできないはずだ。
 バックパッカーの旅から日本に戻り、東京で再び就職して月々の給与を得て生活する仕事についた。ただ数年の間だったが仕事に物足りなさを感じていた。
 そんなとき、海外での仕事の話が若田のもとに舞い込む。新規事業を開始するための支店を海外で設けて、そこで働くというものだった。勤務先はベトナム。仕事の内容は日系企業にベトナム人材を紹介する、という事業だった。
 「海外で働きたい」そう思っていた若田は一も二もなく、その話に飛びついた。

 ベトナム・ハノイに到着した際の第一印象は「思ったよりきれいな街だ」と思ったことだ。その感想を同じ会社の同僚の日本人にもらしたら、「えっ、ハノイの街がきれい?と思うんだ」と驚かれたという。元手の限られた世界一周旅行で世界のさまざまな街をめぐった上での感想だったが、共感は得られなかったのだろう。
 「ベトナム人は日本人にやさしいし、ベトナムの生活の独特の『ゆるさ』も気に入った」若田。プライベートでは、中学時代に覚えたクラリネット、サックスのプレイヤーとして、東京スカパラダイスのコピーバンドに加わったり、徳島の「阿波踊り」の連、「ハノイ香蓮(こうれん)」を立ち上げたりと、充実した日々だった。
 仕事は一生懸命にやったが、なにか物足りない。新規事業だったこともあり、仕事を教えてくれるひともなく手探り状態。自分のやりたい仕事、キャリアではないことに気づき、3年弱働いたものの、仕事を辞めて日本に戻った。
 
 日本に戻ってからは就職するより、自ら起業して事業をやりたい、そう思った若田は「自分で何かをやっているひと」を訪ねてあるいた。その一人は北海道でバックパッカー向けの宿を経営していた。彼女はそこで1ヶ月働いてみた。
 宿には、旅人がやってきて、宿や地元の人たちと交流したり、仲良くなったりするのを目の当たりにした。そう、人々に宿やレストラン、カフェなど「居場所」を提供する仕事は大学在学中にも思い描いていた、将来自分のやりたい仕事だったことを思い出した。そして、それを自分の好きなベトナム・ハノイでやったら面白いのでは?そう思った彼女は、宿の経営者にベトナムで宿の経営をやりませんか、と持ちかけたのだ。
 オーナーは「おもしろい、もしよい物件が見つかったら、一緒にやろう」といわれて、若田はここでも思い切ってハノイに行き、物件探しをはじめたのが2018年だった。

 「物件探しのなかで知り合ったのが、いまのハノイアンの共同経営者であるベトナム人女性でした。彼女はハノイ出身で、英語も得意、そして旅行業とバックパッカー向けの宿を経営していましたし、人々の『居場所』を提供する事業をするという点で価値観が一致していて、意気投合したんです」
 宿にはカフェ・レストランが併設されていて、ランチを提供していた。若田が経営に加わることで、夜のディナーとバーの共同経営にまでこぎつけた。
 まさに「ひょうたんからコマ」。宿の物件探しは果たせなかったが、若田はハノイに自分の「居場所」を見つけたのだった。

 ただ、2020年にはコロナがハノイを襲い、共同経営者は宿泊事業はやめてしまった。人材紹介の仕事をアルバイトで手伝いながら、コロナを乗り切り、そのコロナが一定の収束をみたなかで、ハノイアン・バーを2021年、タイ湖のほとりにオープンした。ただ、この店も1年半で、家主の都合で追い出され、現在のリンラン通りの路地に越してきたのだそうだ。まさに波乱万丈とはこのことだろう。
 コロナであきらめて日本に帰るという選択肢はなかったのか、そう私が尋ねると、若田は「いや、そんな気持ちはまったくなかったですね」とあっさりと答えた。
 コロナ禍でもこのハノイに踏みとどまって、事業はなんとしても継続すると決めた彼女の粘り強さは賞賛に値する。私もハノイで事業をするものの一人として、彼女を見習いたいものだ。
 
 ハノイアンの共同経営者であると同時に、阿波おどりの連、「ハノイ香蓮」の連長もつとめる。徳島出身だけあって、一年に一回の阿波おどりの時期にふるさとに戻って参加してきたが、まさかハノイに連をつくって、毎年盆休みには徳島に踊りにいくことになるとは思っても見なかった、そう語る若田。1ヶ月に一度ぐらいの頻度で踊りをおどる機会もある。連の人数も男女あわせて20名を超えるまでになった。
 将来の夢はと問えば、「自分の生まれたふるさとである徳島が大好きなんです。自然にあふれた徳島の良さをベトナムの人にも知ってもらう仕事もしてみたいですね」
 そんな若田はそういい、そしていつのまにか、その夢を実現しているといった気負いのなさがよい結果をもたらすのだろうか、そう思わずにはいられなかった。

文=新妻東一

ハノイアン・キッチン 若田尚里

ハノイアン・キッチン
Hanoian Kitchen

プロフィール

徳島に生まれて育ち。大学卒業後に東京へでて就職。フリーペーパー情報誌の営業を3年勤めて、思い立って世界一周旅行で7ヶ月間をついやす。海外で働きたいとの思いからベトナム・ハノイで人材紹介業の営業を3年弱つとめて、一旦帰国。その後縁あって再びベトナムに赴き、ベトナム人女性経営者と出会い、バー&レストランを共同で経営。20名を擁する阿波踊りの連、ハノイ香蓮(こうれん)の連長もつとめる。

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