夏は肝だめし!ベトナムの心霊スポットをめぐる旅

 夏の風物詩といえば肝だめし!私も学生時代、クラブの合宿に参加した際に男女ペアで暗い夜道を歩き、墓場があるという場所に行って帰ってくる、肝だめしをやった記憶があります。夜道はそれほどこわくはありませんでしたが、当時ちょっと憧れていた女性の先輩が「キャー」といって自分の腕にすがってきたことの方にドキドキしてしまいました。ああ、青春!
 部屋の真ん中にロウソクを一本だけつけた灯りの中で、皆で自らが体験した不思議体験や怪談を語るなんてこともやりました。私の友人の語りは上手で、怖いながらも引き込まれて、本当に背筋の寒い経験をしたこともあります。
 ベトナムにも怪談や都市伝説があります。夏ですから、そのいくつかをご紹介してみましょう。観光しながら、そうした怪談や都市伝説のある場所だと知って訪れると、興味が増すこと間違いなしです。
 夏の寝苦しい夜などにベトナム心霊スポットをめぐる旅のプランを計画してみてはいかがでしょう。

跡地に建てられたレジデンスに幽霊がでる⁈ホアロー収容所(ハノイ)

 ある商社駐在員の話。ハノイに赴任して家族とともに住むことが決まったレジデンスはハノイのホアロー収容所の跡地に建てられたばかりの高層ビルでした。眺めもよいし、設備も最新鋭。駐在員は喜んで入居を決めました。ただ、一緒に住む予定の妻には怖がるといけないと思い、フランス植民地時代、囚人の死刑も行われた刑務所の跡地に建てられたとは教えていませんでした。
 妻がハノイに来て、3日目のこと。駐在員の夫がレジデンスに戻ると妻が蒼白になって「ここは早くでましょう」と真剣な顔で訴えたというのです。
 妻の話をきくと、夕方買い物から戻ってエレベーターでのぼり、自分の部屋のあるフロアで降りた。少し薄暗いエレベーターホールの奥になにやら白い人影があり、囚人かなにかのようだった。俯いて黙って立っていた。怖くなって自分の部屋に駆け込み、あなたの帰りを待っていた、そう語ったというのです。
 海外駐在の妻は精神不安などに陥りやすいので、駐在員の夫はただちに会社に事情を説明して、他のレジデンスを用意してもらった、といううわさ話がかつてありました。
 ホアロー収容所。1896年にフランス植民地時代のハノイに建設された、主に政治犯が収容された刑務所です。道を挟んでとなりには裁判所があります。市の中心部にあって、フランスが被支配者であるベトナム人に対して圧倒的な権力を誇示するための施設だといってよいでしょう。
 跡地のほとんどは高層のオフィスとレジデンスに建て替えられ、一部が当時のままの状態で博物館として公開されています。展示物も見応えがあります。特に処刑にもちいられたギロチンが薄暗い部屋に展示されています。刃は上にあがったまま、首を差し込む穴が黒くポカンと空いているのです。フランス植民地支配の過酷さを象徴しています。
 独房や囚人に足枷をはめ、並べておく台には人形が並んでいます。囚われの身でありながら、ベトナムの革命家たちは革命の理論を学び、すきあれば脱獄を試みたそうです。
 米国との戦争がはじまったときには、米軍捕虜が収容されました。当時、捕虜が使用したギターやパイロットが使用したスーツなども展示されています。米兵からはホアロー収容所は「ハノイ・ヒルトン」と呼ばれました。
 この収容所でベトナム人政治犯は1666名が犠牲となっています。肝だめしのためだけでなく、ベトナムの歴史を知る上でも重要な遺跡。ぜひ一度訪ねてほしい場所です。

16歳の少女の幽霊が夜な夜な徘徊する〜旧富豪の豪邸・ホーチミン市美術館(ホーチミン市)

19世紀末、サイゴンの華人にして、ベトナム南部に2万戸もの不動産を所有する不動産王、ハオ・フア氏。彼には3人の息子とかわいい娘がいました。名前はフア・ティエウ・ラン。ハオ・フア氏は彼女をたいへん可愛がっていましたが、やがて若くしてハンセン病に罹患し、その容貌も醜いものになりました。当時、ハンセン病は感染症として恐れられていたので、父親は彼女を邸宅の最上階に閉じ込めたのです。彼女は孤独と病いに絶望し、泣きびました。使用人はドアから食べ物を差し出していたそうです。
 ランが亡くなると、ハオ・フア氏は娘の遺体を石棺にいれ、ガラス板で蓋をし、秘密の部屋に安置しました。その後、夜な夜な白い服を着た女性の影が窓から現れる、泣き叫ぶ声がするなどとの話が町中に広まり、語り継がれました。
 1973年にはレー・モン・ホアン監督のホラー映画「フア家の幽霊」が制作され、多くの人々の記憶に残り、今もつづく幽霊話のひとつです。
 ハオ・フア氏の豪邸の建っていた場所は、現在のホーチミン市美術館となっています。
 ハオ・フア氏の子供たちや末裔らはサイゴン陥落後、ベトナムを脱出してしまっているので、彼らの住居は接収され、その一つが美術館になっています。
 ホーチミン市美術館は1990年に開館、約4千点の作品が収蔵されています。フランス植民地時代に設立したインドシナ美術学校の卒業生の作品をはじめ、反戦画家や現代作家の作品も展示されています。
 美術館に展示されている作品の中には、漆(うるし)画の創始とされるグエン・ザー・チーが20年を経て創作した、画家最後の作品である漆画「北中南部の春の園」や、北部出身の女性画家レー・ティ・ルーの作品は女性や子供の肖像画を中心に女性らしい柔らかいタッチの、それでいて力強さが滲みでている作品もあります。
 美術館を訪れてみたついでに、旧植民地時代の華人の娘の悲劇とその幽霊に思いを寄せてみるのも悪くないでしょう。夜は閉館しているので構内に入ることはできませんが、今も白い服の女性の影が現れることがあるのでしょうか。

仏米との抗戦時代の流刑の島〜コンダオ島とヴォー・ティ・サウの墓

 「コンダオ島に遊びにいった若者グループが到着後、ヴォー・ティ・サウの墓に詣でなかったら、グループの中の男の子が身体の調子を崩し、滞在中海に遊びにいくこともできなかった」「夜中の零時にサウの墓を詣でると願いが叶うといわれ、詣でてきた!」
 コンダオ島。フランス植民地時代に、主に政治犯を収容する刑務所が建設され、ベトナム戦争時代には南ベトナムのかいらい政権が、やはり収容所をひきついで、革命の指導者たちを捕えて収容したことで知られています。
 第1次インドシナ戦争の時代。革命運動に家族とともに加わった14歳の少女ヴォー・ティ・サウ。彼女は12名のフランス人を爆殺するも逃げのび、その後同じくフランス人に対して手榴弾をなげ、爆発が未遂だったことから逮捕、18歳の若さでコンダオ島に送られ、銃殺された革命戦士です。彼女の墓はコンダオ島にあります。
 ベトナムでは救国の英雄は古くから祠に祀られる伝統があります。日本では神社にあたるものです。ただ、ヴォー・ティ・サウを祀る祠はないものの、彼女の墓を詣でるベトナム人は後をたちません。
 不思議なのは、彼女の墓を詣でないと祟り、霊障があるということです。彼女は若くして死んだので、特に若い男の子には霊障があるとされているのです。だから、コンダオ島にリゾートにいくにしてもサウの墓を詣でてからにするといわれています。
 加えて、夜中の零時に彼女の墓を詣でると願いが叶うとされているので、夜中にもかかわらず多くの人が墓を詣でるのです。
 コンダオ島はリゾート開発もすすみ、ハノイやホーチミン市から空の便で訪れることもできます。
 特に手付かずの自然が残されていることもあり、ネイチャーツアー、エコツアーが楽しめる島です。夏の早朝にはウミガメの産卵や卵から孵化した子ガメを海に放つツアーも催されているので、外国人観光客にも人気の観光地です。
 コンダオ島には、トン・ドゥック・タンをはじめベトナムの革命の指導者の多くが収容され、虐待を受けました。それにもかかわらず節を曲げず、ベトナム独立に力を尽くした人々に敬意を表して、収容所後や記念館を訪ねるベトナム人が後をたちません。
 コンダオ島を訪れたら、ぜひヴォー・ティ・サウの墓と犠牲者となった革命家たちの霊園を訪ねてみてください。ベトナムの苦難の歴史のいったんに触れることもできます。
 サウの墓を訪れれば、願いも叶えてもらえるかもしれませんね。

文=新妻東一

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新妻東一Sanshin Vietnam JSC マネージングダイレクター

投稿者プロフィール

1962年東京出身。東京外国語大学ベトナム語科卒。貿易商社勤務、繊維製品輸入を担当。2004年ベトナム駐在。2010年テレビ撮影コーディネートと旅行業で起業。

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