お金を出せば経営者になれるが、ボスとして慕われるには「覚悟」が必要
- 2021/07/06
昨年8月「ベトナムで竹炭パンが売れている!」とのツイッターのつぶやきをヒントに「竹炭パン」をパン粉に用いた新商品・黒いとんかつ「Sumikuro」を開発、1ヶ月後には店頭に並べ1日120食を完売したホーチミン市・とんかつ専門店「Fujiro」。日本にいながらリモートで商品開発をすすめたのが「Fujiro」のオーナー、永露仁吉だ。
永露は1976年に福岡県に生まれた。大学は大阪外国語大学(現大阪大学・外国語学部)に入学、中国語を学んだ。当時、これから発展を遂げるのは中国だと中国に関心が集まった時代だった。在学中、永露は1年間中国をバックパッカーとして中国を旅した。チベットやウイグルも訪れた。そこで感じたのは中国人の「個の強さ」だったという。「金を稼ぐ、家族を養う、といったことへの彼らのたくましさを強く感じ取ったんです」
卒業の年はまさに就職氷河期まっただ中。友人たちは必死に就職活動をしていたが、永露は冷めていた。すぐに企業に就職することにはためらいがあった。「自分の生き方が見えないままにとりあえず就職し、そのまま企業に飼い慣らされたり、自分の牙を抜かれたりするのは嫌だと思っていたんですね」彼は大学卒業後、家庭教師になった。進学を希望する学生向けの家庭教師をやって稼ぐと月50万円にはなった。
そんな永露も結婚を機に大手化粧品メーカーに就職した。そこではブランド、ブランディングの大切さを学んだ。中国語を生かした仕事をしたいという思いから語学スクールへも勤めた。
「でも自分は我が強かったんです。組織内のルールに適応できなかった。時間、お金、さまざまなしがらみのために我慢することができなかったんです。自分は今日のノルマを達成したのに、なぜ社内で就業時間まで無駄な時間を過ごすのかと。若かったですから、今ならその理由はわかりますけど」と永露。
周囲には一流企業に勤めるというレールをはずれて怖くないのか?と、退職を止められたが、「失ってもたかが自分の月給ぐらいの話でしょう?自分の価値が当時の自分の月給分程度とは思いたくなかったんです」
そして永露27歳、2003年に起業、独立。最初は「アジア物産」の名で中国との貿易業から出発した。2008年には株式会社菊の華を設立。美容室経営ではフランチャイズを含め一時23店舗を展開するまでになったが、先行きをにらんで飲食店業界にも進出した。
佐賀県の嬉野を本拠地とする創業30年の老舗「ぎゅう丸」というハンバーグ店のフランチャイズに成功した。出店していたイオンモール福岡のジェネラルマネージャーから「イオンモールベトナムとカンボジアに飲食店を出店しないか?」との誘いがあった。海外出店は夢だった。だが、中国大陸に今さら出店しても遅いだろう、台湾、香港、シンガポールはいわずもがなだった。「ベトナム・カンボジアならこれからの国だ。ベトナム人富裕層や在留日本人向けを狙ってもおもしろくない。ベトナム人中間層の胃袋をつかもう」とばかりに「自分の思い」を先行させた計画で永露は出店した。2014年のことだった。
イオンモールのフードコートに出店させたのはハンバーグ専門店、単価も一品5〜6万ベトナムドン(約250〜300円)にした。しかしこれがあたらなかった。1日50万ベトナムドンの売り上げしかない日もあった。「なにがいけないって、ベトナムの事情もよく知らずに自分の思いだけで出店を進めてしまったことにありました」と述懐する永露。
当初ベトナム進出に失敗した永露だが、なぜベトナムに残り、再び新しい店舗に挑戦しようとしたのか?との問いに彼は即答した「ベトナム、いや、ベトナム人が好きになってしまったんですよ。ベトナム人が優秀というのもありますが、日本の昭和のような人間関係の濃さが残っているでしょう、ベトナムには。彼らと一緒に小さくてもいいから店をやろうって思ったんです」
ベトナムに当時まだなかったのは本場博多のとんこつラーメン屋だった。まだベトナムにないものならニーズがあるはずだと博多に本店のあるとんこつラーメン「暖暮」を誘致し、当時まだ薄暗い路地で飲食店も少なかったホーチミン市タイバンルンのヘム(路地)に2016年出店した。こんな暗い場所に店をだして大丈夫か?との声もあったが、これがあたった。
とんこつラーメンでの成功をきっかけに永露はタイバンルンを中心に店舗を誘致したり、共同経営店や自分の店をひとつづつ増やしていった。冒頭に紹介した「とんかつFUJIRO」もそうした店舗の一つだ。多くの日系飲食店経営者たちの努力により、薄暗い路地でしかなかったタイバンルンのヘムは日本食店が立ち並ぶ街として活気ある場所に変貌した。
コロナ禍のもとにあっても次々と新しい店を出店するのに忙しい永露。でも店は「自分のもの」という感覚はないという。「飲食業に限らず事業というのは乗り物みたいなもの。僕が『経営者』として舵取り役をつとめているだけです。料理長やマネージャーなどそれぞれ僕のできない役目をつとめ、チームで取り組んではじめて成立する。そもそも自分は飲食でアルバイトしたこともないし、料理だって作れませんから」と永露は笑う。
店舗には日本人の管理者はおかない。すべてベトナム人に任せている。「ベトナムのコロナ第一波が収束した2020年6月から21年2月まで僕自身ベトナムを不在にしました。日本にも事業があるし、彼らに任せておけるなと判断したから安心して日本に帰りました。コロナ禍にあって困難がありましたが、前年比売上増となる月もありました。僕が不在でもしっかり成果をだせるまでに成長したスタッフたちに誇りを感じています」
インタビューの最後、永露はこういった「FUJIROのベトナム人料理長がね、ある日突然辞めるといいだしたんです。開店当初から僕と料理長二人でやってきた。やめさせてあげればいいじゃないかという声もありましたけど、僕と料理長との関係はそんなうすっぺらい関係じゃないんです。人間関係が濃く、家族主義の強いベトナムでは仕事において良くも悪くも個々の結びつきが大切だと感じます。経営者、社長でありながら親分とかボスのような役割も必要。お金を出せば経営者になれますが、ボス、兄貴として慕われるには人間としての覚悟も必要ですね」
「FUJIRO」もタイバンルンから2号店を7区に出店させた。今後は焼き鳥屋や寿司屋など新規に6店舗を新たに開店するという。コロナのおかげで遅れ遅れになってしまっただけと永露はいうが、このコロナ禍にあって驚異的だ。「一品6万ドン前後のベトナム中間層向けの業態をやりますよ。ベトナムの中間層の胃袋を掴みにいきます。7年半前のリベンジですね」
インタビューは1時間の予定が2時間になってしまった。プライベートでの再会を約してインタビューを終えた。
文=新妻東一
永露仁吉
株式会社菊の華・代表取締役社長
プロフィール
1976年福岡県生まれ。青雲学園高等部から大阪外国語大学中国語学部に進学。化粧品メーカー、語学スクールを経て、2007年株式会社菊の華設立。福岡とベトナムを拠点に美容室や飲食店などを展開中。
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