ベトナム語のみならずベトナムの法体系も学び、法律分野における日系企業の応援団に/リベロ&アソシエイツ株式会社・伏原宏太
- 2024/03/11
- 日系企業インタビュー
何年か前、たまたま見ていたベトナム国営テレビ番組。ホアンキエム湖をバックに流暢なベトナム語で語る人物が写っていた。テロップには日本人と思われる名前が表示されている。これほどなめらかにベトナム語を操る人物が、このハノイにいるのか?と驚愕した覚えがある。実はこれが今回私がインタビューした伏原宏太氏というひとを知った最初の出来事だった。
ほどなくして共通の友人を介してお互い知り合いとなったが、彼のベトナム語は一級品であり、尊敬に値する。今回このような形で彼をインタビューする機会が得られたのは個人的にもたいへん光栄なことだと思っている。1時間にわたり、彼がベトナムと出会った当時から、現在に至るまでを語っていただいた。お互いハノイの十人ではあるものの、このインタビューのお約束で、今回もZOOMを利用したリモートでのインタビューであることをお断りしておく。
伏原は1970年、大阪に生まれた。大学に進学すべく受験した。上智大学外国語学部フランス語科に合格し入学したのが1990年。伏原によれば「受験して合格したのが、上智大フランス語だけだったから」という理由でフランス語科に進んだ。
伏原は、入学後自らに問いはじめた。自分はなにものなのか、ワンノブゼムで終わりたくない、なにか他人とは違うなにかが必要ではないか、そう思ったというのだ。
冷戦が終了し、ベトナムではドイモイ政策が開始され、それまでのソ連一辺倒だった外交政策から西側諸国とも関係を気づく全方位外交へと舵をきったばかりの時代だった。伏原の目にベトナムは、将来性のある国と写った。今ならベトナムに関わっている日本人は少ないが、文化的には日本と似たところもある。個人旅行が解禁となったばかりの時代に伏原は観光ビザを取得して単身ベトナム旅行もした。その旅行でベトナムが将来発展するとの確信を得た。
1993年、ハノイ総合大学ベトナム語学科に留学し、本格的にベトナム語の勉強をはじめた。当時は日系大手商社が自社の社員を語学研修生として送り出し、ベトナム語を勉強させていた。だから同級生には同年代の日本人の学生もいた。ほかに旧ソ連・東欧、北朝鮮からも学生がきてベトナム語を学んでいた。アメリカ人の学生もいたそうだから、多種多様なバックグラウンドをもつ学生がベトナム語を学んでいた。
私も日本の大学でベトナム語を学んだひとりだが、大学に入学するまでベトナム語に関する予備知識もなく、大学の教室ではじめてベトナム語に触れた。
日本語の母音はあいうえおの5つだけだが、ベトナム語の母音は綴り字で11個、二重母音は6個、子音は17個。加えて声調(トーン)があり、中国語は4つだが、ベトナム語は6つも声調がある。日本語ネイティブには発音、聴解が極めて困難な言語として知られている。 そんなベトナム語の発音の難しさを入学後1ヶ月にしてようやく知り、以後ベトナム語の発音や聴解を学ぶのは諦め、学習の中心を読解、いやベトナム語の「解読」だけをやるようになってしまった。おかげでそれから40年後の今も発音の悪さをベトナム人の妻や子供たちから指摘される始末だ。
伏原の勉強の方法は異なった。当時、外国人がベトナム語を学ぶメソッドも確立しておらず、なにかシステム的な教授法でベトナム語を習ったわけではない、という。伏原のベトナム語の学習法は文法や語彙の勉強より先に、発音の練習を徹底的に行ったという。自らの発音をラジカセに録音し、それを聴き返してはネイティブのベトナム語の発音と比べてみる。口の形もカメラで撮影して吟味する。
自ら発音できない言葉は聴き取りもできない、そう気づいたのは私など後年になってからだ。大学時代は私は発音の練習などまったくさぼっていたから、ここで大きな差がついてしまったのだとあらためて思った。これからベトナム語はじめ外国語を学ぼうとする読者のみなさんにはこのことを肝に銘じて、ベトナム語を学ぶのならまず発音練習を徹底することだ。
伏原はハノイの大学で2年間ベトナム語を学んだのち、日本に帰国し、ベトナム語の通訳としてフリーランスで仕事をした。96年にはNHK BS1で週3日、ベトナム国営テレビ放送局(VTV)のニュースを7分間、同時通訳をする仕事を2008年まで行った。その日のニュースをその日のうちに放映するので、放映1、2時間前にニュースをみて、その後、それを同時通訳する。当初はメモをとるのが精一杯で、そのメモを観ながら本番に望んだというからものすごい。
ほかにも商談、セミナー、警察・司法通訳も務めた。まさにベトナム語通訳のプロフェッショナルだ。生活に十分な稼ぎも得られる様になった。
だが伏原はそれだけでは満足がいかなかった。ベトナム語ができるというだけでなく、なにか専門性を身につけたい、そう思った伏原は2004年、34歳にして上智大学の法学研究科法曹養成専攻、つまり法科大学院に入学し、3年間として法律の勉強をした。日中は通訳の仕事、夜間や休日は勉強にあてた。
「ベトナム語を学んできて、日本にいてベトナム語をもちいているだけでよいのか?ベトナムの人たちに対する自分の価値を試してみたかったんです」と伏原はいう。
2008年には東京の国際弁護士事務所に就職。ベトナムへ仕事で訪れる機会もできた。新たな挑戦に臨むべく、さっそくベトナムに赴任、ハノイ事務所で投資プロジェクトへのアドバイスやビジネス上必要な法律的な助言を相談企業に与える仕事をはじめた。
さらに伏原はベトナム語を理解してベトナム語の法律文書を読みこなすことはできても、ベトナムの法学・法体系を知らずにいては顧客に適切なアドバイスをすることはできないと感じ、さらにハノイ法科大学、ベトナム司法省弁護士養成講座に3年間通い、再び夜間、土日を費やしてベトナムの法学・法体系について学んだ。卒業に当たっては200ページを超えるベトナム語による論文も提出したそうだ。ベトナムの弁護士になるにはベトナム国籍がなければならず、弁護士そのものになることはできないが、ベトナム法・法体系をベトナム語で理解し過去のベトナムでの無数の判例や行政判断も読み込むことで、適切な法律的な判断、アドバイスがはじめてできるとの信念があってのことだった。
そして満を持して2019年にはリベロ&アソシエイツ社を独立、起業した。
「ベトナム人法律家や行政、役人に対してベトナム語で顧客にかわって直接交渉、説得を行い、たたかうことができるエージェントであることに自負を持っています」そう語る伏原の言葉はとても頼もしい。
投資プロジェクトへの開発、戦略支援にはじまり、M&A、市場調査に加えて、海外で企業活動をする上で必ず発生しても解決の難しい社内不祥事、公的機関の査察、警察捜査への対応、紛争解決の支援なども積極的に行う、日系企業にとっては頼もしい味方だ。
伏原はさらに「ベトナム人技能実習生や留学生の権利を守り、社会的利益と人間の安全を確保する」越日希望の轍プロジェクト(IEVJ)を立ち上げ、ベトナム国内外で「送り出し機関や管理団体、受け入れ企業で事故被害、対人被害に遭われて困難に陥っているベトナム人を支援」する事業の代表も務めている。
また、最近では演劇での日本人演出家の通訳を務めていたことから、俳優としてベトナムの演劇の舞台にたつことになった伏原。彼のマルチプルな活躍ぶりには驚かされる。
彼は自らを「無謀、無計画、無方向な人間だ」と評価する。いや、無謀、無計画だなんてとんでもない。なにごとも極めないことには納得できない伏原だからこそ、だれも真似できない情熱をもって、ものごとに立ち向かう姿が常にある。そんな彼をとても羨ましく思う。
文=新妻東一
LIBERO & ASSOCIATES CO., LTD.
リベロ&アソシエイツ株式会社
代表 伏原宏太
プロフィール
1970年大阪生まれ。上智大学外国語学部フランス語学科在学中に、ハノイ総合大学(現、ハノイ国家大学人文社会科学大学)ベトナム語科留学。帰国後は、フリーランスのベトナム語通訳者として活動。経済、科学技術から政治等に至るまであらゆるテーマでの同時通訳・会議通訳に従事。上智大学法学研究科法曹養成専攻を卒業し、弁護士法人 瓜生・糸賀法律事務所に入所、同系列会社ハノイ拠点の代表として、ベトナムにおける投資プロジェクトへのアドバイザリー業務、ビジネス支援、関連法務に従事。日本人として初めて、ハノイ法科大学、ベトナム司法省司法学院弁護士養成課程の正規課程を修了。現在、同社代表、ベトナム国際商事調停センター 公式調停員、日越大学非常勤講師、社会企業(非営利法人)越日希望の轍プロジェクト 代表を兼務。