自由気ままなベトナム人の夫にふりまわされ、気がついたらお土産店を経営?!

ベトナム雑貨HOA LY/高野有貴インタビュー

 私の妻はベトナム人だ。国際的だ、グローバルだといわれるが、私にとってみれば結婚しようと思った相手がたまたまベトナム人女性であった、ただそれだけだ。結婚して17年目。子供も三人得た。

 「ダナンでベトナム雑貨のお店を経営してがんばっている日本人女性がいる」と紹介をうけた。彼女のインスタグラムのプロフィールをみると、「ベトナム生活17年目、国際結婚15年」とある。ベトナム人を伴侶とする、いわば同志だ。それが今回インタビューに応えてくれた、ダナンのベトナム雑貨セレクトショップ「HOA LY」のオーナー、高野​​有貴だ。

 高野はラーメン博物館のある新横浜駅近くに生まれた。少女時代、彼女は自分の体型にコンプレックスをもっていた。「胸が大きくなって、男子にいじめられて。そんな自分の体型にあってたのが代官山の雑貨屋で出会ったベトナムの民族衣装『アオザイ』。胸が大きくてもきれいなシルエットで、とてもすてきだったんです」高野はアオザイの国、ベトナムにいってみたい、と思った。

 2000年、彼女は大学2年生のときにベトナムでのボランティアツアーに参加した。ジュンコ・アソシエーションの主催するスタディツアーだ。同アソシエーションは交通事故で亡くなった故・高橋淳子さんを祈念して発足したボランティア団体。ベトナム中部の貧困地域にジュンコスクールを建設し、その運営を支えている。「実はボランティアにいきたい!というよりは憧れたベトナムに行ける、という思いが先にあったんですけど」と苦笑する高野。

ジュンコ・アソシエーション主催のスタディツアー

 クアラルンプール経由でハノイ・ノイバイ空港に到着。現在国内線ターミナルとして使用されているターミナルビルはまだ建設中で、彼女が降り立ったのはまるで地方の鉄道駅のようなたたずまいの建物だった。「クアラの空港は近代的な空港ビルでしょう?それがノイバイ空港はこれで大丈夫?と思うような粗末な建物でした。女性トイレは個別の仕切りがなく、二つ橋がわたっているところに皆またがり、他人の汚物がながれていくのを眺めるタイプのものでしたね」かつての中国でもよくみられた「ニーハオトイレ」だ。

 到着後はベトナム人のバイクの後ろに乗って、援助対象となる家々を訪問した。補助金の受給資格の有無を確認する目的だ。おとずれた家は屋根がない、壁もないような家。勉強するにもノートやペンがない家も多かった。「自分がこれまでおくってきた『当たり前の生活』が当たり前でないことに衝撃をうけました」

 志をもってボランティアに参加している友人たち。自分はベトナムにいきたい気持ちだけでツアーに参加していた。自分が大学で選んだ学部は法学部。経済学部や法学部ならば就職に有利だろう、そう思って選んだ。大学にも高校から推薦で入学し、受験勉強すらやっていない。そんな自分に気がついた。

 ツアー期間中、ある一人のベトナム人男性と知り合った。高校の2年間を日本に留学し、日本語が話せた。ツアーの空き時間、彼が高野を誘ってダナンの街をバイクで案内してくれた。「ベトナム人の名前って覚えにくいんですよね。本当はクアンなんだけど、タクアンさん!って覚えました」2歳年上のクアンは高野をかわいがってくれた。でも人前で「好きだよ」「きれいだね」などと連発し、とても真剣に自分を思ってくれているとは気がつかなかった。

 日本に帰国後、文通を通じて彼の自分への気持ちがうわついたものではないと感じた。遠距離でも付き合う以上、彼の真剣な気持ちを受け止めたいと「結婚をするつもりがあるのか?」と高野は問いかけた。クアンの返事はイエスだった。高野とクアンの遠距離恋愛がはじまった。

ベトナム雑貨セレクトショップ「HOA LY」

 大学卒業後、高野は自分の好きなアパレルの仕事についた。そして2004年に退職し、ベトナムに渡った。クアンは日本語ガイドとして働いていた。SARSの感染騒ぎが収束し、観光業に活気が戻っていた時期だった。せっかくベトナムにきたのに1ヶ月のうちに1日しか休みがとれないほど、クアンは忙しかった。まだベトナム語も理解できなかった高野は家に引きこもるしかなかった。「彼と一緒に暮らしたのはローカルアパート。まわりに日本人はいない。それまでキラキラしていたベトナムが急にこわいと感じてしまった」うつ病一歩手前だった。

 そんな高野も旅行業やフリーペーパーの仕事をするようになって、自分を取り戻していった。クアンとも入籍し、子どもも授かった。

 2009年のある日、夫から突然職場に電話があった。「来週から実家のあるダナンに住むことにしたからユキも準備してね」と。彼は相談もなく、ダナンの日系企業での勤め先も見つけていた。高野は悩んだ。1歳半の子どもを抱えている。ハノイですらオムツやミルクも思ったような品質のものは手に入らない。職場は産休明けからようやく戻ったばかり。ましてや職場をやめるにしても引き継ぎが必要だし、と泣きながら夫に訴えた。

 いったん退職を申し出たものの、高野は中部ダナンに支店を設けてはどうかと職場の社長と上司に提案し、受け入れられた。高野は自らの仕事を仕事を確保してからダナンへ移り住むことになった。

 2014年、日本からダナンへの直行便が就航するとの計画が持ち上がる。日本へ一時帰国している最中に夫から電話があった。「日本からの直行便就航にあわせて日本人観光客向けのお土産店をはじめたいんだ。ユキはアパレルに勤めていたから雑貨の扱いは得意だよね。夜と週末だけ手伝ってくれればいいから」というものだった。やるといったらきかない夫のクアン。自分も土産物店経営には興味があった。出店が決まってから1ヶ月で準備をし、直行便就航初日に間に合わせた。「職場の仕事もこなさなければならず、その1ヶ月間は忙しすぎてはきそうでした」

スーベニアショップ「HOA LY」

 もともとアパレルに勤めていたこともあり、新商品の発掘や、企画を考えたりする雑貨ショップの仕事は自分の好きな仕事でもあった。2015年には職場を辞め、お土産店一本で生計をたてるようになった。家事も子育ても職場の仕事も中途半端にはしたくなかったからだ。

 「商品を開発するには時間がかかるのに、真似するのは簡単でしょう?客を案内してくれていたガイドが私の店と同じ商品を仕入れてお土産店をオープンしたりするのが許せなかった。だから他人に真似されないように宣伝にも躊躇したり、他の人たちとも距離を置いたりして。でもそれが間違いだと店をはじめて7年目にして気がつきいたんです」今はガイドブックやインスタグラムでの宣伝にも積極的だ。

 コロナで海外からの観光客は途絶えている。感染症が収束し、お客様がもどって来る日に備えて自宅を改装、1、2階を雑貨ショップの店舗にした。「社会隔離が長引いているので、まだ新店舗のお披露目さえできていないんですが」

 今後はオンライン販売への展開や、自分の実家がある横浜にお店をもちたいとも考えている高野。「私は自分で動かないと気が済まない性分。でもここはマネジメントに徹して、自分がいなくてもお店がまわるようにしないと次の夢もかなえられませんね」と笑う。ベトナム人の夫に振りまわされ、気がついたらお土産店を経営してました、という割りにはしっかりした経営者の顔ものぞかせる。そんな高野に幸運の女神がほほえんでくれるに違いない。

ベトナム雑貨HOA LY/高野有貴

高野有貴(たかの ゆき)
スーベニアショップ「HOA LY」

プロフィール

神奈川県横浜市出身。
2002年明治学院大学法学部法律学科卒業
株式会社ビームス入社2004年に退社後、渡越2005年〜2006年 SMIグループ「Wendy tourハノイ支店」のツアーオペレーター
2006年〜2015年 現地タウン誌「ベトナムスケッチ」ハノイ支店の営業、中部事務所、ツアーデスク立ち上げ
2014年にダナンで初の日本人向けの雑貨店「ホアリー」を夫婦でオープン
「地球の歩き方」「まっぷるベトナム」「Frau」フジTV「ノンストップ」などガイドブック、雑誌、テレビなどの取材多数。
お店を営む傍、買い付け同行や前職の経験を活かして執筆、ベトナム中部コーディネーターもこなす。

https://hoalydanang.com/

 

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