三国志の時代に交阯郡があった、伝説と歴史に彩られた場所/バクニン省

 バクニン省、そう聞いて、ベトナムのどのあたりにあるかを言い当てることができるひとはよほどのベトナム通の方でしょう。ハノイと隣接しているがゆえに、あまり目立つことががありません。外国から訪れた観光客がまず立ち寄るような、ハロン湾やチャンアン・タムコックのような有名な観光地もありません。
 現在はノイバイ国際空港からも至近で、港町ハイフォンやカイラン港にも近いという地の利があるため、キャノンやサムソンといった日本や韓国の電気、電子メーカーがこぞってバクニン省内の工業団地に工場を建設していることで知られています。
 観光ガイドブックでも紹介されることが少ないバクニン省ではありますが、実は歴史の古い土地柄で、伝説的なベトナム建国の王、フン王(雄王)の打ち建てたバンラン国の時代から存在し、その後、中国「漢王朝」がベトナム北部を征服し、太守をおいた交阯郡(交州)の中心地となったのは、このバクニン省でした。
 今回のベトナム観光旅行記では、このバクニン省に焦点をあてて、ハノイからも日帰り観光が可能な、仏教寺院や名刹、廟や伝統工芸村を紹介します。

民衆に慕われた漢の太守、士燮を祀った拝殿、士燮祠(Đền Sĩ Nhiếp​​)

 2〜3世紀、中国は三国時代、日本は「卑弥呼」「邪馬台国」の時代に、現在のベトナム北部は「交阯(こうし・こうち)」と呼ばれていました。前漢の武帝が紀元前2世紀に現在の広州や北ベトナムを治めていた南越を滅ぼし、交阯郡をはじめ9郡とし、直接支配するようになったのです。
 ベトナムはこの時代から10世紀に中国の支配を脱するまでの約1千年間を「北属期」と呼んでいます。ベトナムで「北」とは歴代中国の王朝を示しています。
 さて、日本に「卑弥呼」が治める「邪馬台国」が存在していた時代に、士燮​​(ししょう)という名の太守、つまり郡の長官が交阯を治めていました。
 三国志のひとつ、孫権が治めた呉の国の史書、呉書には士燮​​伝という一節があり、それによれば士氏は蒼梧郡(現広西チワン自治区)の豪族で、士燮の父は日南太守に任命されていた。士燮は当時の都である洛陽に遊学し、学問を修めました。その後、彼は交阯太守に任命され、中央から派遣された刺史が現地人の恨みをかって殺されたのを機に反乱を収拾し、士氏の一族で4郡の太守を独占するにいたります。
 彼は三国時代に時に応じて曹操や孫権にもうまく取り行って郡の長官としての地位を保ち、土着の漢人支配層や現地の民衆からも広く指示を取り付けました。
 南海交易で財をなし、交阯の特産物を朝廷や孫権らに貢納することでも地位を万全なものにしました。
 士燮が登庁する際には楽器をかき鳴らし、香をたき、胡人(インド人またはインド系)の商人もその行列に続いたと士燮伝には記されています。
 その士燮の拝殿と廟墓がバクニン省にあります。士燮祠(Đền Sĩ Nhiếp​​)と呼ばれ、今も地元の人たちから慕われており、祭礼も行われています。拝殿の入口の門には「南交学祖」「有効儒教」との文字が掲げられています。これはベトナムでは古くから士燮が漢字と儒教、すなわち学問をもたらしたとの言い伝えに基づくものです。
 拝殿を正面にみて左手脇の道を進むと、その奥に士燮の廟墓があります。廟墓といっても小さな囲いの中央に土が盛られているだけのものです。そして側に羊の石像がひとつおかれています。中国において石羊は墓の守護として置かれるだそうです。普通は対をなして置かれるものですが、なぜか一頭の石羊がぽつんと置かれています。

インドから渡った仏僧が建てたとされるザウ寺(Chùa Dâu)

 その士燮殿のほど近くにあるのが延応寺、またの名を法雲寺という名称の寺です。ザウ寺という通称でよく知られています。この寺は2〜3世紀にインドの仏教僧によって作られた寺であるとされます。
 このザウ寺にはマンヌオン(蛮娘)伝説という言い伝えが伝わっています。
 インドの僧、キュウダラ(丘陀羅​​)は交阯にやってきてブッダの教えを初めてベトナムに伝えました。
 少女マンヌオンは10歳にして仏道を学び、丘陀羅に仕えておりました。
 ある日丘陀羅が所用で出かけ戻ってきてみると、マンヌオンが僧房で居眠りしていました。丘陀羅が彼女をまたぐと懐妊し、20ヶ月後に女児が産まれます。
 仏僧はその子を受け取ると桑(ザウの木。異説では榕樹=ガジュマロ)の木を錫杖で叩き、桑の幹が口を開くと、その窪みに赤ん坊を納め、呪文を唱えると桑の幹の開口部は閉じてしまいます。
 村は3年続きの旱魃になります。年続き丘陀羅はマンヌオンに錫杖をたくし、旱魃に苦しむ人たちを救うように申し付けます。マンヌオンは丘陀羅の錫杖を土に差し込むと、そこから水がでて、田畑がうるおい、村人は旱魃から救われます。
 ある風雨の強い日に女児を納めた桑の木が倒れ、川に流されます。交阯の太守である士燮の治めるルイラウに流れつきますが、その桑の木を誰も川から引き上げることができません。しかしマンヌオンはその桑の木に「わたしの子どもであるなら、母たるわたしについておいで」と語りかけその桑の木をやすやすと岸に担ぎ上げます。
 これをみた士燮は、その桑の木から4つの仏像をつくり、法雲仏、法雨仏、法雷仏、法電仏と名付け、それぞれ別の4つの寺に納めました。その一つがザウ寺(法雲寺)に納められ、旱魃や日照りの際に仏に祈りを捧げると大雨が降ったと伝えられています。
 この寺の正面の鐘楼のわきに、士燮の廟墓にあったのと同じ石羊がぽつんとひとつ置かれています。本来、廟墓にあったものがザウ寺に移設されたものなのか、それはわかりません。しかし、次のような伝説が伝わっています。
 「交阯太守の士燮は二頭の羊をかわいがっていた。士燮の死にあたり、その羊のうち一頭は廟墓に、もう一頭はザウ寺に、それぞれ士燮の死をいたむかのようにうずくまり、そのまま石になった」と。

バクニン省の伝統工芸村・ドンホー村の「ドンホー版画」

 ベトナムには伝統工芸村が多く存在します。農村地域にありながら、その村々に特徴的な生産物を古くから生産してきた村を指します。
 ベトナムでもっとも有名な伝統工芸村はハノイ郊外にある陶器製造の村、バッチャンでしょう。日本にもその製品が輸出され、ベトナムみやげとしても人気の商品となっています。
 この伝統工芸村はハノイを中心に北部ベトナムの各省にあり、様々な商品を生産してきました。その製品は陶器、絹織物、木工製品、鋳造品、銀細工など多岐にわたります。
 バクニン省はこの伝統工芸村が多数存在することで有名です。なかでも特徴的なのは今回ご紹介するドンホー村の「ドンホー版画」です。
 ドンホー版画は4、5色の多色刷りの版画です。絵のモチーフは鶏、豚、子どもといった題材から、ハイバーチュンなど、ベトナムの英雄を描いたものや、カエルや、ネコにネズミといった説話を主題とするものなど多岐にわたります。
 中国でも新年を迎えるために春節には縁起のよい動植物を描いた吉祥画を飾る習慣がありますが、ベトナムでも同様にドンホー版画を新年に飾る習慣があったもののようです。
 縁起ものだけでなく、浮気をした夫と愛人を妻がハサミをもって追いまわす光景を版画にしたものなどもあり、ベトナム男性の浮気性とベトナム女性の嫉妬深さを表現するマンガのような絵柄もあり、庶民生活の一端を紹介するものでもあります。
 版画に用いる紙はゾーという木の皮で作られた紙の上に貝の光沢のある部分を粉末にして塗りつけたディエップ紙というものです。
 色材は黒は炭、赤は朱色の石、青は銅のさび、藍を用い、黄色は花から抽出したものを使用します。
 このドンホー版画はかつては盛んにつくられましたが、現在はドンホー村には数軒が残るのみとなっています。現在はベトナムの国の無形文化遺産に指定されて、その伝統の保存に勤めており、国内外の観光客が村を訪れ、ドンホー版画を鑑賞するだけでなく、版画の技法を紹介するコーナーで制作の様子を直接みることもできます。版画の販売も行われています。
 また、現在ドンホー村では、旧暦の1、15日や年末に燃やして、先祖や神様に祈るための冥器と呼ばれる、紙製の馬や衣服などを生産する家々もあり、村を歩いてめぐると珍しい光景を目にすることができます。
 バクニン省の名所の数々を訪れると、都会のハノイとは異なるベトナムの文化に触れることができます。

文=新妻東一

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