ベトナム観光旅行記:第5回「ダラット」

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ベトナム観光旅行記:第5回「ダラット」

 ベトナム中部高原ダラット。ホーチミン市からなら車で6時間30分、飛行機で行けば1時間弱で到着します。標高1500m前後で、高原だけあって亜熱帯のベトナムにあっても夏涼しい土地柄です。この夏涼しく穏やかな気候を生かして野菜や花卉の生産が盛ん。ベトナム全土で消費される野菜の6割を生産しているというから驚きです。

 ダラットは元々コホ族の住む土地でしたが、フランス植民地の時代にフランス人によって避暑の街として開発された場所です。まずはダラット「発見」の歴史から紐解き、ダラットの街をご紹介いたしましょう。

ダラットの「発見」〜ペスト菌の発見を北里博士と争ったエルサンが「発見」

ダラット・ランビアン高原

 ベトナムがフランスの植民地だった19世紀末。パストゥールの最後の弟子と言われる医師にして冒険家だったフランス人エルサン。彼がニャチャンからプノンペンまで、探検の旅に出たことでダラット・ランビアン高原が「発見」されました。彼は途中山賊に会うなど危険な目にもあっていますが、都合3回も探検を行なっています。

 彼が初めてダラットの高原を目にした時のことを回想し、こう語っています。

 「松林を抜けて、突然、巨大な緑色の高波がうねる海を思わせる広大な高原を目の当たりにしたとき、僕は深い感動を覚えました。高原の北西の地平線に聳え立つランビアン山地は、高原に立体感を与える素晴らしい背景となり、風景の美しさを際立たせていました」(アンリ・H・モラレ、ジャックリーヌ・ブロソレ著「見えない敵との闘い」)

 エルサンはこの探検の途中で香港に呼び出され、ペスト流行の調査の依頼を受け、ペスト菌を発見します。同じく香港でペストの研究をしていた北里柴三郎のペスト菌発見とほぼ同時期でした。1894年のことです。

 エルサンのダラット「発見」後、インドシナ総督、ポール・ドゥーメールにより避暑地開発が進められ、さらに開発が進んで中部高原の有数な都市の一つに発展した。フランス植民地時代の古い別荘がいくつも残っていて、まるでヨーロッパの山岳地方の都市のような街並みを楽しむことができます。

アプト式蒸気機関車が走った、ダラット〜ファンラン線

 アプト式鉄道をご存知でしょうか。アプト式とは急勾配の鉄道線路においても列車が滑らないよう、2本のレールの中央に設けられた軌条と機関車に取り付けられた歯車とで構成された鉄道のことです。勾配が急なスイスの登山鉄道のために開発された技術です。日本では信越本線の碓氷峠に設けられましたが、現在は用いられておりません。

 その世界的にも珍しいアプト式鉄道がかつてダラット〜ファンラン間を走行していました。

 19世紀末に開発がはじまったダラット。当初から鉄道が計画されました。20世紀初頭には地形調査が2年がかりで行われ、1908年にはダラット〜ファンラン間の鉄道建設が開始されました。鉄道敷設には2億仏フランを要し、距離にして100km、勾配率が12%にも及ぶ箇所もあり、工事は難航を極めました。工事に携わった人々が次々とマラリアに倒れたり、土砂崩れなどで犠牲になる人も多く出ました。全線開通は1932年。鉄道建設開始から四半世紀を経なければなりませんでした。

 1954年以降は南ベトナム解放民族戦線ゲリラの破壊目標となり、度々破壊されました。サイゴンが「解放」された1975年以降はハノイ〜ホーチミン間の修復のために本路線のレールが取り外されたため、鉄道は走ることができなくなりました。

 1990年、世界的にも貴重なアプト式蒸気機関車を動態保存し、観光に役立てようとスイスの「フルカ山岳蒸気鉄道会社」が雨ざらしとなっていた蒸気機関車を65万米ドルで買い戻し、修復整備し、山岳鉄道として夏季のみ運行され、今も山岳鉄道として観光客に親しまれています。

 現在は観光用にダラットからチャイマットまでの7km区間のみ列車を走られせているようですが、人数が集まらないと運行しないとのこと。

 ダラット駅は1932年に起工、1938年に完成した駅舎。3つの特徴的な山型を持つ美しい建物です。なんでもダラット・ロンビエン山をイメージした建物なんだとか。また、日本の鉄道ファンにはうれしいことに、日本のC12型蒸気機関車が静態保存されています。本機関車は1936年に川崎車輛で製造され、1938年には中国・華北鉄道に用いられました。戦後は国民党政府に接収、中国が共産党政権になったのちに雲南で使用され、1960年代に中国からベトナム戦争支援物資として北ベトナムに贈られたもの。南北統一後には一時期観光用としてこのダラット線に用いられました。

 ダラット駅には客車をカフェに改造し、喫茶を提供していますので、駅舎とカフェでまったりしてはいかがでしょうか。

ダラット原子力研究所 〜サイゴン「陥落」直前に核燃料棒を持ち帰った米国

ダラット原子力研究所
ダラット原子力研究所(2015年5月撮影)

 ダラット・スアンフン湖から小高い丘へ少しのぼるとダラット原子力研究所があります。入場はできませんが、正門から内部を覗くことができます。円筒の建物があり、その中心部に小型な原子炉が据えられています。ホーチミン市統一会堂(旧南ベトナム大統領官邸)やダラット市場などの建築で知られる建築家・ゴー・ヴィエット・トゥによる美しい建物です。

 米国アイゼンハワー大統領の時代、アメリカは「平和のための原子力」プロジェクトを開始、原子力は核兵器を作るためだけにあるのではなく、平和にも寄与する未来のエネルギーであることを示し、次世代の産業として世界各国に働きかけました。その際、TRIGA実験用原子炉が日本をはじめ世界35ヵ国に供給され、南ベトナムもその対象国でした。1960年原子炉の建設が開始され、1963年には臨界に達し、250kWのエネルギーを生み出すまでになりました。しかし1968年には米国の意向が変化し、運転は停止されました。

 1973年パリ和平協定が締結、米軍はベトナムから撤退しました。そして1975年3月。北ベトナムは武力統一を目指し、南ベトナムに侵攻、中部高原の街バンメトートが陥落します。ダラットが北ベトナムの共産主義勢力の手に落ちるのは時間の問題と見て、米国は核燃料棒67本と80gのプルトニウムを回収するためアイダホ大学の米国人研究者2名をダラットに派遣しました。「敵」の北ベトナム軍はダラットに8kmにまで迫っていました。被曝の危険を冒しながら二人の研究者は無事燃料棒を回収し、C−130輸送機に載せてサイゴン、フィリピンを経由して米本国に持ち帰ったのです。1975年3月31日のことでした。そして2日後の4月2日、ダラットは「解放」され、北ベトナム軍が研究所を接収しましたが、燃料棒はありませんでした。

 研究者二人にはもし回収が間に合わなかったら原子炉を爆破せよと指示していました。しかし研究者の一人は「ダラットは美しい高原で、野菜の産地であり、研究所の近くには大学もあった。そこを放射能で汚染することは科学者としてできなかった」と述懐しています。

 現在、研究所は旧ソ連の援助を受けて稼働を再開、現在も医療用の核物質を生産し、核医学に貢献しています。私もNHKテレビの取材で同研究所を訪れ、原子炉の内部まで見ることができました。研究所の所長は「原子力研究所は公開が原則である。国内外のメディアの取材を拒むことはない」と名言していたことがとても印象的でした。

ダラットを舞台にした小説・林芙美子「浮雲」

ダラットにある欧風の別荘風の建物

「夕もやのたなびいた高原に、ひがんざくらの並木が所々トラックとすれ違ひ、段丘になつた森のなかに、別荘風な豪華な建物が散見された。いかだかづらの牡丹色の花ざかりの別荘もあれば、テニスコートのまはりに、ミモザを植ゑてあるところもある。金色の花をつけたミモザの木はあるかなきかの匂ひを、そばを通るトラックにたゞよはせてくれた。ゆき子は夢見心地であつた。森の都サイゴンの比ではないものを、この高原の雄大さのなかに感じた。三角のすげ笠をかぶつた安南の百姓女が、てんびんをかついでトラックに道をゆづるのもゐた」(林芙美子「浮雲」)

 引用は林芙美子の小説「浮雲」の冒頭、主人公の日本女性・幸田ゆき子が初めてダラットの街にたどり着いた時の情景描写です。今でも欧風の別荘風の建物は残っていますし、「三角のすげ笠をかぶった安南の百姓女」も見ることができます。本作品は1951年に出版されました。1955年には映画化され公開、名作として知られています。

 小説の主人公、タイピストの幸田ゆき子は妻子のある農林技師・富岡と出会う場所としてダラットが選ばれています。昭和16年に日本軍はフランス領インドシナ南部にフランス本国との条約を結び、日本軍を進駐させます。東南アジアの欧米の植民地侵攻への軍事的な橋頭堡を築くと同時にその資源をも手に入れようとしました。日本の企業や国策会社も現在のベトナムへ進出します。富岡もゆき子もそうした企業の従業員として当時のベトナムへ渡ったのです。

 小説「浮雲」の主人公・ゆき子は今風に言えばダメンズウォーカー。現代人の目からすると、なぜこんな男にずるずると主人公はついて行くのかと理解に苦しまなくもありません。ただこの小説の冒頭のフランス領インドシナの当時の光景は迫真的な筆致で読む人を楽しませてくれます。

 林芙美子は中国戦線に従軍し、オランダ領インド(現インドネシア)には報道班員として派遣されたことが記録されています。中国やオランダ領インドでの手記や記事は今も残されています。ただ不思議なことに林芙美子がフランス領インドシナへ渡った記録や手記、雑誌・新聞記事が見いだせないことから彼女は当時のベトナムやダラットを訪れたことがないとする研究者もいます。

 でも一度も取材に訪れたことのないダラットの風景をこれほど迫真的に叙述することができたのか、不思議と言わざるを得ません。

 ダラットでは気候もさることながら、野菜も新鮮、自然も歴史も感じることができる街です。ぜひ来るべきベトナム旅行の訪問先として加えてみませんか。

文=新妻東一

 

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