阿倍仲麻呂が赴任した安南都護府もあった、夏の夜タンロン城ナイトツアーはいかが?
- 2023/06/26
- ベトナム観光旅行記
「天の原 ふりさけ見れば 春日なる三笠の山に 出でし月かも」
これは小倉百人一首にある阿倍仲麻呂の歌です。8世紀、時は平城京に都があった奈良時代、遣唐使として日本から唐にわたり、若くして科挙に合格、唐朝の玄宗に有能な官僚として仕えました。玄宗はその優秀さから仲麻呂の帰国を、彼が50歳半ばになるまで許しませんでした。さてうれしや、日本へ帰国する船に乗りこみ、その時に詠んだ歌というのが、この故国をおもう歌です。
しかし、帰国船はあえなく遭難、崑崙国(チャンパ王国)、今のベトナム中部に漂着しました。乗員のほとんどは賊兵に殺されるか、病気になって死亡したそうです。生き残った仲麻呂は崑崙国王に謁見して許しを得、命からがら唐の都、長安(現在の陝西省西安市)に舞い戻りました。現在ある自動車道を通っても、その距離2200km、熊本から札幌までの距離を移動した計算になります。崑崙国から長春にたどりつくまで、2年を要しています。
長安に戻った仲麻呂は再び辺境の地、安南への赴任を命じられます。鎮南(安南)都護としてでした。760年のことです。以来、彼は安南節度史、大都督という、唐朝の軍司令官としての役割を6年もの間勤めました。その後、長安に戻って72歳で亡くなりました。
唐といえば、当時世界的にみても大帝国であり、世界の中心といってもよいほどの文明を誇りました。今にたとえれば、仲麻呂は米国に留学してアメリカの大統領の補佐官となり、その後、軍司令官として海外に赴いたようなものです。
長いこと、この安南都護府の場所が特定できていませんでした。825年に安南都護府は移築されたとの歴史記述があったためです。最近、ハノイ人文社会科学大学のファム・レー・フイ氏の研究によって、ハノイ市内にあるタンロン遺跡の発掘により阿倍仲麻呂が赴任していた8世紀半ばには、タンロン遺跡のある場所に存在したとの結論をその発掘された遺物から導き出しました。
タンロン遺跡とは、1010年、中国の支配を打ち破ってベトナム民族最初の統一王朝をきづいたリー(李)朝がタンロン(ハノイの古い名前、漢字で昇龍とかく)に定めたことにはじまり、その後チャン(陳)朝、レー(黎)朝などの歴代王朝の首都があった場所の遺跡群のことです。
2002年、ベトナム政府が国会議事堂を新たに建設しようと、それまであったバーディン会堂を取り壊し、事前発掘調査を行いました。その時に宮殿跡と思われる遺構が発見されたのです。同年、社会科学院考古学院は1.9万平米の範囲について発掘調査を行い、壮大な宮殿跡が姿をあらわしました。
タンロン城が建設されたさらに下層には唐代に建設された大羅城の基石やレンガも見つかり、ここに安南都護府があったことを示す証拠ともなりました。
現在タンロン遺跡はタンロン城の構内の一部、そして国会議事堂地下の博物館で見ることができます。ただし国会議事堂地下の考古学博物館は一般には公開されておらず、多くの方にご覧いただけないのが残念です。
先日、ベトナムの近世史をご専門とする日本の史学の先生に誘われて、タンロン城ナイトツアーに参加しました。タンロン城の入口へ現地集合、ナイトツアー参加料金の30万ベトナムドン(1,800円)を支払って、いざ出発!
ツアーは基本的にベトナム語のガイドがベトナム人向けに行うツアーなので、英語の通訳ガイドが同行してくれました。
タンロン(ハノイ)城は敷地面積が1.9万平米と広く、夏の日差しの中を歩くと汗だくになってしまいますが、夜ともなれば多少涼しくなって、観光もしやすくなります。加えて、構内は美しくライトアップされていて、入場早々、広場正面にそびえる端門の姿は日中みるのと趣きが異なり、荘厳さがいやますかのようです。
この端門は王の居所であった宮城に入る門で、レー朝の時代に造られたものを後のグエン朝の時代に補修されたものだそうです。五つの門があり、真ん中は王だけが入場を許された門です。門の上には楼閣があり、登ってみることができます。端門はレンガと石で造られ、今も堅牢さと威厳を示しています。
門をくぐると、ガラスのステージがあります。ナイトツアーでは、ここで王と家来、官女に扮した男女による踊りが披露されます。こうしたアトラクションもナイトツアーならではです。遺跡観光となると、どうしても地味になりがちですが、色鮮やかな衣装をまとった女性たちの踊りで、遺跡に華やかさが加わり、往時をしのぶことができます。
ライトアップやランタンが吊るされた通路を進むと、敬天殿跡に至ります。途中、遺跡から発掘された遺物を陳列する博物館もありますので、ご覧いただくのもよいでしょう。日本製の陶器の破片なども見つかっており、古くから日本とベトナムとの間に交流があったことを示しています。
敬天殿とは、王や王妃の居所であり、15世紀のレー・タイ・トーの時代に建てられました。フランス植民地時代にはこの場所に別の建物を建ててしまったので、敬天殿そのものは残されていませんが、階段部分は当時のままです。王の権力を示す、四匹の龍が階段の両脇に彫られています。龍の階段はフエなどにも見られますが、レー朝時代の龍は精巧な彫刻が施され、手練れの職人の手によるものであることがわかります。
ナイトツアーでは、この敬天殿跡に拝殿が設けられ、ベトナム民族の祖王たちを敬い、線香を手向けることもできます。ベトナム人参加者は手に線香をもって、拝殿に向かい、お祈りを捧げていました。
敬天殿は今後、復元されることが予定されているとのこと、建築も時代考証にそって、当時のままに復元されることを期待しましょう。
続いて、タンロン城遺跡発掘現場へと進みます。ここは7世紀ごろから19世紀まで、唐や宋の支配下にあった時代から、ハノイに都をきづいたリー朝にはじまり、チャン朝、前後レー朝、マック朝など各時代の遺跡が層をなして折り重なっている様を確認することができます。
日本は時代ごとに都を遷都した時代を経ていますが、ベトナムは19世紀のはじめにグエン朝がフエに遷都するまでは、ホー朝がタインホア省に都を定めた時以外は、王朝が交代しても首都機能はハノイに置かれたため、皇城の遺跡が上下の層になっていることに特徴があります。
遺跡からは礎石や排水路、紀元前後のものと思われる井戸の跡、木柱、龍や鳳凰などの素焼きの装飾品、瓦、陶磁器や銅銭などの遺物が多数発掘されました。日本でいえば奈良時代から江戸時代にいたる遺跡が層をなしているわけですから、その歴史的な壮大さを思わずにはいられません。
ツアー終了となる場所にはカフェがあり、カフェに座るとお茶がふるまわれます。お土産にタンロン城のロゴのはいったガラスの水筒を手渡されます。城から湧き出す井戸から水を持ち帰ってもらおうという趣向のようです。
時間にして約90分間のタンロン城ナイトツアー。晩年の阿倍仲麻呂も過ごしたであろうハノイの暑い夏を少しでも涼しく、悠久の歴史に思いをはせつつ、タンロン城で夜を過ごすのはいかがでしょうか。
文=新妻東一