デザインが形になる楽しさ、人間の活動と建築との化学反応に感動して建築家に

Takashi Niwa Architects/建築家・丹羽隆志インタビュー

 私は建築家という職業に憧れがある。美しい造形を後世に残すことのできる職業だからだ。建築家になるためには数学や物理、工学といった理系的なアタマと歴史・文化、芸術に対する素養、人々の営み、都市や社会への考察といった文系的な感性が必要になる。残念ながら私のアタマは理数系の学問を受け付ける受容体がなく、いつもひどい成績ばかりをとっていたので、もちろん建築家などにはなれっこない。だからこそ建築家を尊敬し憧れてしまうのだ。

 ハノイ・ファンケービン通りにあるイタリアンレストラン4P’s。イタリアンでもピザやパスタが中心のカジュアルなレストランだが、その建物はとみると庭に池があり、むき出しのレンガの壁の階段を昇っていくと、1階の大きく白いピザ窯を眺めつつ、2階のテーブル席に通される。道路に面した窓には鋳物で造られた飾り格子がはめ込まれ、優しい影を床に落としている。気の置けない友人や親しい取引先の人とカジュアルなおいしいイタリアンを楽しむのに、とても雰囲気の良い空間が作られている。

 この建物をデザインしたのが今回インタビューに応じてくれたハノイ在住の建築家・丹羽隆志だ。インタビューをお願いしたら、一つ返事で了承をいただいた。

 丹羽の生まれは石川県松任市(現白山市)、1979年生まれだ。松任市は金沢市の隣りにあり、金沢という都会のいわばベッドタウンだそうだ。「田んぼばかり」と丹羽はいうが、日本酒地酒ブームで一躍全国区となった「天狗舞」の車多酒造や印刷・映像クリエイティブ向けや医療・航空管制用の特殊ディスプレイで知られるEIZO社本社がある。

 丹羽は中学を卒業すると「石川工業高等専門学校」に進学する。同校は高専ロボットコンテストで何度も全国大会に出場するなど情報技術に強いイメージだ。

 「当初は電子情報学科に進むつもりだったんですよ。でもITは習ったことがすぐに古くなる。せっかく5年間かけて学んだことも一生使える知識にはならないんじゃないかと直感したんです。高専のオープンカレッジで建築学科を訪れたとき、当時は珍しかったマッキントッシュのパソコンに白黒のドームの映像が描かれていたんです。何故、その映像を映しているのか?と先生に尋ねると「石川高専のOBが造ったんだ」と。丹羽はその「造った」という言葉に魅せられた。

 丹羽の父親はかつて大工をしていたこともある。幼かった丹羽に「これが父親が作った家」だと母に示されて誇らしかった思い出が蘇る。座学が嫌いだったが、ものづくり、自分のアイディアが形になるということに建築の魅力を感じた。しかも学んだことが一生無駄にはならない世界だ、そうも感じた。

 石川高専の建築学科に進学した丹羽。クラブも建築研究部に入部した。顧問の先生は河内(こうち)浩志という名だった。

 「河内先生が毎年、富山県利賀村で行われる鈴木忠志率いる劇団SCOTの公演に学生を引率して見に行くんです。クラブ員や先輩など4、50名で出かけるんですが、いきなり幹事役を頼まれて旅行の手配を任されて、とっても大変でしたけど。利賀村にはギリシャのような半円形の屋外劇場が池と山に向かってしつらえてあるんです。建築といえば家屋と思っていた僕は、建築と自然を背景に演劇という人の営為があって、その場所でそれぞれがたがいに化学反応を起こすのを見て、とても感動しました」

 鈴木忠志は別役実らと早稲田小劇場を創立、その後富山県利賀村に本拠地を移し、合掌造りの民家を改造して演劇活動をはじめた。1982年からは利賀村で世界演劇祭「利賀フェスティバル」が催されている。半円形の劇場はその1回目のために造られたものだ。設計は建築家・磯崎新。現在はこの野外劇場以外に7つの劇場、稽古場、宿泊施設を含む県立利賀芸術公園となっている。

 この時の経験は高専2年生の丹羽には強烈な印象を残したようだ。いわゆる座学という意味での勉強は嫌いだったが、自らのデザインが形になる建築にのめり込んでいく。石川高専から東京都立大学に進み、大学院も卒業した。正式に働く前に一級建築士を取ってしまおうと考えた。

 「1年目の試験には1点足りず不合格となり、2年半ほど浪人したんです。浪人中は、それこそグッドウィルの日雇いバイトから、外注コンペの手伝いや建築図面のデジタル化など何でもやりました」

 2年目に丹羽は合格した。25歳になっていた。30歳の年までには仕事をしっかり覚えようと建築事務所に加わろうと考えた。この浪人時代に土木やインダストリアルデザインといった様々な分野の友人たちに囲まれ刺激を受けていた丹羽は、住宅しかできない建築家ではなく、建築デザインというスキルを通じて大小さまざまなものがデザインできるアーキテクトになりたい、そう願った。そんな丹羽が行きついたのは岡部憲明だった。

 岡部憲明はロマンスカーなど電車のデザインから橋や空港などの設計までこなす著名な建築家だ。しかし面識のなかった丹羽はまず岡部に直接会おうとグッドデザイン賞の公開審査の会場に行き、その場で岡部自身に直接声をかけポートフォリオ(作品集)を見て欲しいと頼んだ。岡部は丹羽の申し出を受け入れてくれた。

大小さまざまなものをデザイン

 「ポートフォリオを事前に送りアポを取って事務所に岡部さんを訪ねたんです。ちょうど土曜日で、岡部さんが一人オフィスにいたんですが、事前に送った私のポートフォリオが見つからないと言うんです。その時は1時間建築に関する岡部さんの話を伺って帰りました。改めて事務所の番頭さんにもアポイントを取り、ポートフォリオの感想をいただき、事務所を後にしました。2回ともやんわり断られたと思い、もう縁がないものと覚悟していました。ある日『コンペがあるので、仕事を手伝わないか』と岡部さんの事務所から電話でお誘いがあり、仕事を手伝えることになったんです。先輩インターンが立て続けに辞めたこともあり、事務所に正式に勤めることになりました」まさに丹羽の執念が天に通じたのだ。

 彼は岡部事務所にいた5年間に一通り、木造、鉄骨造、鉄筋コンクリート造の建物や橋の欄干設計に関わり、デザインアプローチを学んだ。

 「中でもマレーシア・ジョホール・バルでの日系工場のプロジェクトで1年現地に滞在して現場監理を経験したのですが、『東南アジアで建築をやるのは面白いな』と感じたんです」

 岡部の事務所で扱うのはほとんど大きなプロジェクトだったので、数をこなすことはできなかった。30代の10年間になるべく数多くの仕事にかかわり、自分の方向性を見出したいと考えた丹羽に東南アジア、それもベトナムから仕事を手伝ってくれないかと誘いがあった。

 「私をパートナーに迎えようというヴォ・チョン・ギアとは、実は石川高専の同窓生で寮仲間だったんですよ。彼は年上ですけどひとつ下の3年次に編入してきてね。ピンポンを一緒にやる友人がいつの間にかコンペやプロジェクトで協働するようになったんです」

 ギアは石川高専を卒業後、名古屋工業大学に進学、続いて東大の社会基盤学科に進んだ。丹羽はギアの東大在学中にコンペの準備で一緒に泊まり込むこともあるほど仲が良かった。

 経済成長著しいベトナムなら多くの仕事を手がけることができるだろうと丹羽は思い切ってベトナムに拠点を移し、ギアの設計事務所のパートナーとなり、ハノイオフィスを創設する。

 ギアは竹の構造やコンクリートに緑を配置した建物の設計で特徴のある建築家だ。ベトナム全土のレストラン、カフェ、リゾート、幼稚園などの設計・施工を手掛けている。

 「ギアは高専にいる頃から寮に住み、奨学金をあまり使わずに貯金して、自分の田舎があるドンホイ辺りの土地を買ったりしてね、若い頃から経営の視点がありました。だからベトナムに帰って色々事業に手を出すんですが、一番成功したのが、彼のトレードマークになる竹の構造の建築デザインと施工だったんですよ」と丹羽は学友ギアに親しみを込めてこのように評した。

 多くのプロジェクトをギアとともに手がけた丹羽は30代の終わりに独立を決断する。

 「ギアはカリスマ的に仕事を進めるタイプでリーダーシップを発揮する一方、なかなか外部の意見を入れるのが難しかった。でも僕は岡部さんのように多くの良いエンジニアと協働でデザインを作り上げて行きたい。そこで自身のチームをつくってチャレンジしたいと思ったんです」40代には自分のマスターピースと言える作品を5つ作りたいという目標をたてた丹羽は、ハノイに建築事務所TakashiNiwa  Architectsを設立する。

 独立後最初に手がけたのが、上述のジャパニーズ・イタリアン4P’sのハノイ・レストランだった。以後、同4P’sハイフォン店、ホーチミン市の一風堂ベトナム1号店、そして来年オープンする予定の4P’sも丹羽の作品だ。

 丹羽が独立を決めた頃に出会った言葉がある。「あなたでなければ、ここでなければ、いまでなければ」、ブルースタジオの建築家・大島芳彦氏の言葉だそうだ。経済成長する今のここ、ベトナムで、日本人というバックグラウンドを持つ建築家である自分に何ができるのか、そう自答し、そしてその自分の価値を「見える化」しようと試みているのだと語る丹羽。

 「ベトナムの持っている力、魅力、そして才能と、日本のそれとを双方向で紹介しあいたいとも考えています。ベトナムの大学には建築の本が少ないということもあって、同じハノイの日本人建築家・竹森紘臣さんと一緒に『アーキテクチャー・ブックブリッジ』と言う名称で、日本の皆さんに建築関係の本をベトナムに寄贈していただくことも呼びかけています」

 このベトナム・ハノイから丹羽のマスターピースというべき作品が世界の地図に刻まれる日が楽しみだ。

文=新妻東一

Takashi Niwa Architects/建築家・丹羽隆志

Takashi Niwa Architects
丹羽隆志(にわたかし)

プロフィール

1979年石川県生まれ。1999年国立石川工業高等専門学校卒、2001年東京都立大学卒業、2003年同大学院修了。2005年岡部憲明アーキテクチャーネットワーク入社、2010年Vo Trong Nghia Architects(VTNアーキテクツ)パートナー、2018年Takashi Niwa Architectsをハノイに設立、日越大学客員研究員、2020年丹羽隆志アーキテクツ・ジャパン一級建築士事務所を日本に設立し現在に至る。アジア建築家評議会アルカシア賞(2015)、サイゴン川歩道橋デザインコンペティション最優秀賞(2020)など受賞多数。

https://takashiniwa.com

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